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座談会「世界の医療現場で生きる 国際医療福祉大学の学び」

世界の医療現場で生きる 国際医療福祉大学の学び
医学部一期生が語る、英語・多文化・多職種の学びと、その先の医療

2017年に開設された国際医療福祉大学医学部。英語による医学教育、各国からの留学生と共に学ぶ国際的な環境、多職種連携教育、基礎と臨床を結ぶ統合型カリキュラム――こうした特色ある医学教育を、一期生は卒業後の診療・研究・教育にどう生かしているのか。日本、ベトナム、モンゴルの医療現場で活躍する4人が、坂元亨宇副学長・医学部長と語り合った。
(本稿は、「中央公論」9月号掲載の座談会の詳録です。)

坂元 亨宇 医学部長
齊藤 明良
小西 真衣
Dang Thanh Huy(フイ)
GANBAATAR TUMURJIN(ジン)

遠かった世界が、自分の選択肢に変わった

坂元
皆さんは2017年に医学部一期生として入学しました。出身地も、医学を志した経緯も様々だと思います。齊藤先生は北海道のご出身ですが、高校時代はどのような進路を思い描いていましたか。
齊藤
地元の医学部に進み、そのまま道内で医師として働くのだろうと漠然と考えていました。海外で活躍する日本人医師の姿は知っていましたが、自分がそこを目指すとは想像していませんでした。医学部に合格すること自体が、当時の私にとって大きな目標だったのです。
浪人中の夏、予備校で本学医学部の新設を知り、パンフレットを手に取りました。そこには、米国の医師資格試験(USMLE)への挑戦を視野に入れたカリキュラムや、赤津晴子先生をはじめ、米国で臨床経験を積んだ先生方から直接指導を受けられる環境が紹介されていました。「自分も海外を目指せるかもしれない。だったら挑戦してみたい」と思ったのです。
小西
高校では生物が好きでしたが、進路を医師だけに絞っていたわけではありません。国際協力にも強い関心があり、高校1年生のときには、東京都千代田区のプログラムでカンボジアを訪れました。半年ほどの事前学習を経て1週間滞在し、現地の学校やNPOを訪ねながら、紛争からどのように復興してきたのか、多くの国や団体がどのような支援をしてきたのかを学びました。そこで感じたのは、善意があっても、相手の社会や歴史を十分に知らなければ、相手が必要としていることとずれてしまう場合があるということです。
その後、高校の先生から、国際性を掲げる新しい医学部ができると聞きました。医学を学びながら国際協力にも関われるかもしれないと思い、本学に興味を持ちました。医師の家系ではない私にとって、特待奨学生として授業料が免除されたことも、進学を決める後押しになりました。
フイ
子どもの頃から、困っている人を助けたいという思いがありました。ITや経済の分野に特別な強みがあったわけではなく、人を助けるなら、医学の知識と技術を身につけるのが自分には一番合っていると考え、医学部に進みました。
ベトナムのホーチミン市医科薬科大学で1年次を終えたとき、本学の奨学生募集を知りました。本学とベトナム保健省、ホーチミン市医科薬科大学の協定による制度で、各大学の成績上位者が応募できるものでした。日本で医学を学べる貴重な機会だと思い、応募しました。
ジン
私はモンゴルの外国語学校で、第一外国語として日本語を12年間学びました。父が筑波大学で研究した経験があり、日本語学習を勧めてくれたからです。
モンゴル国立医科大学1年次に奨学金制度を知り、応募しました。日本語に加えて、英語でも医学を学べることに魅力を感じました。

仲間と教員とつくった、一期生の学び

坂元
一期生として前例のない学びの場に入って、苦労も多かったのではないかと思いますが、どのように乗り越えてきましたか。
齊藤
学内の試験では、どこまで細かく問われるのか、何をどこまで覚えるべきなのか、「ここまでやれば十分」という目安がありませんでした。時間がある限り突き詰めて学ぶほかなく、大変でしたが、知識を深く掘り下げる習慣はついたと思います。
大学生活そのものもゼロからです。フットサルサークルは、サッカーをしたい仲間が集まり、看護学部の体育館を借りるところから始めました。押味貴之先生も週1回参加してくださり、学生以上に本気でボールを追いかけていました(笑)。
本学では、入学直後から授業だけでなく、自己紹介やオリエンテーションもすべて英語でした。そのため、同級生とは自然にファーストネームで呼び合うようになり、名字を知らない人もいるほどでした(笑)。先生の中にも「名前で呼んでくれ」という方がいました。授業だけでなく、学生や教員との関わり方も含め、日本にいながら海外の大学で学んでいるような環境でした。その雰囲気は今も受け継がれていると聞きます。
小西
私も同級生から大きな影響を受けました。薬剤師資格を持つ同級生に薬理を教えてもらい、私は生物が好きだったので、苦手な人に高校生物の知識を伝える。互いの得意分野を教え合っていました。大学のスペイン語サークルでは、成田地域に暮らすスペイン語圏の方々と交流し、そのつながりから3年生のとき、メキシコのカンペチェ市で日本の公衆衛生についてスペイン語で発表する機会を得ました。まだ一期生だけの小さな学部でしたが、世界とつながろうとするエネルギーはとても大きかったです。
フイ
1年生の頃、10人ほどの勉強会をつくりました。1、2年生の英語の授業では、私が教えることが多かったのですが、3年生以降、専門的な授業や実習が日本語で行われるようになると、今度は日本人の友人に助けてもらいました。
ジン
日本語は長く学んでいたので日常会話には困りませんでしたが、医学用語や解剖学は別です。難しいところは同級生と確認し合い、教員に直接聞きながら進みました。一人で乗り越えたというより、一期生全体で前に進んだという感覚です。

成田キャンパス 医学部棟(WA棟とWB棟)

英語で学び、世界の知識へ――日米ダブルライセンスへの挑戦

坂元
本学の医学教育を象徴する一つが、入学直後から始まる英語による医学教育です。高校生や保護者からは、英語についていけるのかという質問が多く寄せられます。
齊藤
最初は、難しいという感覚しかありませんでした。英語で直接すべてを理解しようとして、なかなか前へ進めなかったのです。1年生の医療生命科学の授業で、DNAが複製され、タンパク質がつくられる過程を学んだときも、まったく理解できませんでした。私は大学受験で物理を選択したので、生物の基礎が十分ではなかったことも響きました。
そこで途中から、まず日本語の教科書で内容そのものを理解し、その上で英語の教科書や講義に戻るようにしました。すると、英語が分からなかったのではなく、そもそも日本語でも概念を理解できていなかったことに気づいたのです。人の体は日本でも海外でも同じです。医学の基礎を理解できれば、英語の用語や表現も分かるようになる。1、2年かかりましたが、基礎を押さえて授業に臨めるようになり、4、5年生になる頃には、英語論文やUSMLEの教材を、いちいち日本語に訳さず読めるようになっていました。
臨床で情報を調べるときも、英語で検索すると得られる情報量は格段に増えます。海外では標準的な治療や薬が、日本ではまだ使えないこともあれば、その逆もあります。複数の基準を知ることで、診療の選択肢は大きく広がります。英語は、必要な知識へ届くための道具だと感じています。
坂元
学生時代にそこまで気づいたのは素晴らしいですね。その気づきが、USMLEへの挑戦にもつながったのですね。
齊藤
押味先生が放課後に開いてくださったUSMLE対策の勉強会に、継続して参加していました。5年生でStep 1に合格し、初期臨床研修1年目にStep 2 CKに合格しました。世界の医学生や医師が受験する試験に向き合い、自分の医学知識が国際的な基準の中でどこまで通用するのかを、客観的に確かめられたことは大きかったです。また、将来、海外で学んだり働いたりする機会が訪れたとき、必要な語学力や資格がなければ手を挙げることができません。USMLEへの挑戦は、可能性を閉じないための準備です。
小西
私は6年生でStep 1に合格しました。英語で学んできたことを形に残したい、自分がどこまで通用するのかを試したいという気持ちで受験しました。合格は大きな自信になり、英語で学んだことを将来のキャリアに生かしたいという思いも強くなりました。
英語で学ぶ環境は、語学力だけを競う場ではありませんでした。グループワークでは、英語が得意な留学生、薬理に詳しい学生、生物や数学に強い学生が、それぞれの強みを持ち寄りました。多様性とは、単にいろいろな国の人がいることではなく、異なる強みを組み合わせてチーム全体の力に変えることなのだと学びました。
フイ
私は来日するまで、日本語をほとんど学んだことがありませんでした。ひらがな、カタカナから始め、特に漢字には苦労しました。ただ、ベトナム語にも漢字に由来する言葉があります。例えば「準備」は、ベトナム語の「チュアンビ」と発音が似ており、意味と音が結びつくことで親しみをおぼえました。日本語の微妙なニュアンスも、友人から教えてもらいました。例えば、私は強く同意していることを伝えようとして、「はい、はい、はい」と繰り返していたのですが、日本では、相手の話を真剣に聞いていないように受け取られることがあると教わりました。
逆に、私たち留学生が日本人学生の英語を支える場面もありました。誰もが、ある場面では教え、別の場面では教えてもらう関係でした。

基礎を知り、目の前の変化を読み解く

坂元
本学は、基礎医学と臨床医学を関連づけて学ぶ統合型カリキュラムや多職種連携教育を採用しています。現在の診療で、学生時代の学びが生きた場面を聞かせてください。
齊藤
脳神経外科では、患者さんの状態が短時間で変わることがあります。血圧が低下したとき、単に「輸液をする」「昇圧薬を使う」という手順だけを覚えていても、さまざまな状況には対応できません。循環のどこに問題があり、体の中で何が起きているのかを、生理学や薬理学に戻って考える必要があります。学生時代、基礎医学と臨床医学を臓器別に結びつけて学んだことで、症状や検査値を見たとき、その背後にある人体の仕組みを考える癖がつきました。
小西
特に印象に残っているのは、岡本秀彦先生の生理学です。腎機能や細胞内シグナルなどについて、英語のグループワークで考えました。基礎医学は暗記に偏りがちですが、問いを与えられ、自分たちで考え、説明する授業だったので、受け身にならずに学べました。3年生のとき、日本語で行われた統合講義を受け、それまで別々に見えていた基礎と臨床がつながり、「これまで学んできたことは無駄ではなかった」と実感しました。
その学びは、現在の診療や研究にも生きています。私は神経内科で診療しながら、大学院で細胞膜修復の研究に取り組んでいます。基礎的な現象を丁寧に追うことが、病気の理解を深め、新たな問いを生むと感じています。研修医2年目で大学院に進学できたのも、国際医療福祉大学成田病院が臨床研修と研究を両立できるよう配慮してくださったからです。奨学金の支援も受けています。臨床と研究の両方に取り組める環境に支えられています。
フイ
本学で特に身についたのは、多職種と一緒に患者さんを支える姿勢です。医師だけで医療は完結しません。看護師、薬剤師、リハビリテーション職、診療放射線技師、ソーシャルワーカーなど、それぞれが持つ情報を共有することで、治療だけでなく、患者さんの生活まで含めた方針を考えられます。リハビリスタッフに「この方はどこまで歩けそうですか」と相談したり、放射線技師と画像を見ながら「ここを詳しく見たいですね」と話し合ったりしてきました。本学で身につけたこの姿勢を、ベトナムに戻ってからの診療でも生かしています。
ジン
大学で臨床実習に入る前からセミナー等で多職種連携について学び、また学生寮でも他学部の学生と交流していた経験が今も臨床現場で役に立っていると思います。医療は医師一人でやるものではなく、チームプレイです。特に呼吸器内科では慢性疾患が多く、リハビリテーションや看護のサポートは不可欠です。大学で学んだことをモンゴルでも生かすよう頑張っています。

専門を選ぶ――治すことと、支えることの両方を考える

坂元
学生時代の経験は、それぞれの専門医を目指す上でどの様につながっていますか。
齊藤
もともと脳や認知症など、神経の仕組みに関心がありました。臨床実習で消化器外科や産婦人科を回り、医師自身の技術で患者さんの状態を変えられる外科の魅力も感じました。6年次の海外実習では、米国の心臓外科を見学する機会もあり、かなり迷いました。
最終的に脳神経外科を選んだのは、脳が人間の中で最も複雑で、まだ分からないことが多い領域だと感じたからです。
実際に臨床に出ると、顔のけいれんと口の痛みに長年悩み、食事もとれなかった患者さんが、手術の翌日には症状が改善し、食事をとれるようになったこともありました。一方で、前日まで元気だった方が突然倒れ、体を動かせなくなることもあります。手術によって患者さんの生活を大きく変えられる場面がある一方、病気の厳しさに直面することもあります。その両方を経験する中で、脳神経外科医としての自分がつくられていると感じます。
今は成田病院の脳神経外科医局に所属し、専門医プログラムの一環として神奈川県内の病院に勤務しています。手術や病棟業務、当直が続く毎日ですが、目の前の患者さんに確かな医療を届けられるよう、基本的な技術を一つずつ身につけているところです。
脳神経外科を選んだことで、海外との関わり方についても具体的に考えるようになりました。米国で研修医の段階から脳神経外科に進む道は、米国外の医学部を卒業した医師にとって非常に狭き門です。そのため、まずは日本で手術経験を積み、脳神経外科医としての技術を磨いた上で、将来は海外で臨床や研究に関わることを視野に入れています。
小西
神経内科を選ぶ決め手になったのは、村井弘之先生が授業の最後におっしゃった言葉でした。
「治る病気を治す医師はもちろん必要です。しかし、神経難病のように治らない病気を前にしたとき、患者さんとどう向き合うか。そこで医師の真価が問われる」
治すことだけでなく、患者さんとどう向き合うかを問う言葉に、強く心を動かされました。
フイ
消化器内科に関心を持ったきっかけは、4年生の臨床実習でした。もともとは、理論的に考えながら診断を組み立てていく神経内科に魅力を感じていました。しかし、神経難病の中には、治療薬が高額で、ベトナムでは誰もが治療を受けられるとは限らないものもあります。母国でより多くの患者さんに貢献できる分野を考える中で、実習で見た早期胃がんの内視鏡治療が印象に残りました。
大きな手術をせずに治療できる場面を見て、こうした技術をベトナムでも広げたいと思いました。ベトナムでは、がんが見つかったときにはすでにステージ3や4で、手術もできずに亡くなった知人が何人かいます。内視鏡による早期診断と治療を通じて母国の医療に貢献したいと考えました。現在は、日本の内視鏡医がベトナムで指導する際に通訳を務め、学んだ内容を同僚と共有しています。
ジン
私は呼吸器内科を選びました。感染症から喘息、COPD、がんまで幅広い病気を診る一方、原因がまだ分からない病気もあります。そうした幅広さと奥深さに惹かれました。ウランバートルでは大気汚染が深刻で、喫煙率も高く、呼吸器疾患は大きな課題です。特に肺がんでは、診断時にすでにステージ3や4まで進行している患者さんが少なくありません。将来は、早期発見や治療についてさらに学び、日本との連携も生かしながら、モンゴルの患者さんへ還元したいと考えています。
成田シミュレーションセンタ
高機能シミュレーター
成田シミュレーションセンタ
手術シミュレーション室(OR)

学ぶ側から、教える側へ――知識を循環させる

坂元
フイ先生とジン先生は、母国で診療だけでなく学生や研修医の教育にも既に関わっていますね。学ぶ側から教える側になって、何が変わりましたか。
フイ
現在はホーチミン市医科薬科大学で、週2、3回、Teaching Assistantとして教育に関わっています。主に3年生を対象に、問診や身体診察、症状から診断を組み立てる考え方などを、シミュレーションや臨床の場で教えています。
本学では、講義を聞くだけでなく、実際にやってみたり、グループで説明したりする機会が多くありました。人に説明しようとすると、自分の理解が曖昧だった部分に気づきます。学生から質問され、すぐに答えられなければ一緒に調べる。分からないことを無理に答えるより、考える過程を共有することが大切だと思っています。本学で先生方や友人から受け取ったものを、次の学生へ少しずつ渡しているつもりです。
ジン
私が働く日本モンゴル教育病院は、モンゴル国立医科大学の附属病院です。病棟や外来で診療しながら、実習生や研修医の指導に携わる機会は多くあります。臨床推論や病気のことはもちろん、日本で学んだ患者さんへの接し方や、モンゴルでは内科医があまりやらない手技等も教えられるよう心がけています。教えるためには、自分の行動の理由を言葉にしなければなりません。それが自分の学び直しにもなっています。

高校生へ――自分の可能性を、早く決めすぎない

坂元
最後に、本学医学部を目指す高校生へメッセージをお願いします。
齊藤
今、自分の将来像がはっきりしていなくても、心配する必要はありません。本学には、英語での学び、留学生との交流、多職種連携、海外実習など、今まで知らなかった世界に触れる機会があります。難しいときには基礎へ戻り、人に頼り、自分でも調べる。そうした姿勢が、将来の選択肢を広げてくれると思います。
小西
自分の関心が一つに決まっていない人にも向いている大学だと思います。医学、国際協力、研究、臨床、地域との交流など、入学してからさまざまな方向に進むことができます。自分とは異なる人に出会い、考えを揺さぶられることを楽しめる人には、大きな学びがあるでしょう。
フイ
私たち留学生の多くは、日本語をほとんど話せないところから始まりました。それでも、先生や友人、大学の支えを受けながら卒業し、日本の医師国家試験に合格して、今はそれぞれの国で働いています。努力は必要ですが、一人の力だけで成し遂げたわけではありません。周りと助け合いながら挑戦したい学生に向いている大学です。
ジン
日本人学生も留学生も、互いに教え合うことで成長できます。どれほど大変な時期があっても、なぜ自分が医学を志したのか、その原点を忘れなければ乗り越えられます。


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プロフィール

坂元 亨宇 国際医療福祉大学副学長・医学部長(さかもと・みちいえ)

教員紹介ページ

齊藤明良(さいとう・あきら)

国際医療福祉大学医学部医学科2023年卒。国際医療福祉大学成田病院で初期臨床研修を修了し、同院脳神経外科医局所属。

小西真衣(こにし・まい)

国際医療福祉大学医学部医学科2023年卒。国際医療福祉大学成田病院で初期臨床研修を修了後、同院神経内科で後期臨床研修。神経内科医として臨床に従事するかたわら、同大学大学院で細胞膜修復の研究に取り組む。

Dang Thanh Huy(フイ)

ベトナム・ホーチミン市医科薬科大学から本学医学部特別奨学金制度により留学し、2023年卒。日本で初期臨床研修を修了後、帰国してホーチミン市医科薬科大学内科医局に所属。

GANBAATAR TUMURJIN(ジン)

モンゴル国立医科大学から本学医学部特別奨学金制度により留学し、2023年卒。日本で初期臨床研修を修了後、帰国してモンゴル国立医科大学附属日本モンゴル教育病院呼吸器内科に勤務。